交通事故が元で悪い噂を流された、母の昔の話です。

母がまだ結婚する前の頃だそうです。当時、家族経営のごく小さい会社に勤めていた母は、ある日、その会社の社長さんが運転する車の助手席に乗っていて、事故に遭いました。その社長さんは女性で、離婚歴があり、50年近く昔の当時、社長といえど、世間の目は冷たかったようです。その社長は、母に、車を運転していたのは自分ではなく別の人ということにしてほしい、と言いました。まだ若く世間を知らない母は、その話を承諾。かなりひどい事故だったのか、半年ほど入院していましたが、その間、入院費用を社長さんが負担するということもなかったようです。

半年の入院期間を経て退院し、出社した母は、愕然としました。自己の顛末が、母は、男性が運転する車に乗っていて、事故に遭った、という内容に変わっていました。また、母は、異性と遊ぶふしだらな女でだらしがない、という噂も広まっていました。それらはすべて、事故を起こした社長が流したものでした。女社長が、母が入院中で不在なのをいいことに、自分に都合のいいウソの噂を流して、自分の身を守ったのでしょう。とても卑怯なやり方です。母は、祖父に、裁判にする、訴えて本当のことを白黒はっきりさせる、と怒りましたが、祖父は「そんなことをしても世間から言いたい放題言われてまた傷つくだけだ、がまんしないさい」と止められたそうです。

今であれば考えられないことですが、昭和40年代前半の話です。独身の男女が一緒に歩いているだけでも「ふしだらだ」と悪い噂を流される時代の話ですから、ましてや、独身の男女がドライブして事故に遭った、となれば、相当なスキャンダルなのです。もちろん母はその後その会社を退職しました。近所でも、女社長が流したウソの噂は広まり、しばらくの間、肩身の狭い思いをしたようです。そんな中、救いになったのは、入院中知り合った父の存在でしょう。入院中の母に一目惚れし、母と同じ病室のおばさんに間を取り持ってもらって、話しかけたそうです。初め、母は、父に怖い印象しかもてず、あまりいい感じをもってなかったようです。ですがその後、素朴で曲がったことが嫌いな性分の父に惹かれたようでした。

もちろん、女社長が流したウソの噂のことも、父の耳には入っていました。退院後、両親はつきあっていましたが、母は、女社長が流したウソの噂のことを気にしていて、父からの結婚の申し込みを断ろうとしていました。「私は本当のことしか言ってない。でも、世間は信じてくれない。カツヒサさんが私を信じてくれないなら、結婚の話はなかったことにしてほしい。」と言ったら、「俺はお前を信じる」と言ったそうです。

その後両親は結婚して、私が生まれ、数十年を経て私がその話を聞くことになるのですが、祖父母や叔父叔母、母の生家で、事故当時の噂の話を一切聞いたことがありません。昔の話だから蒸し返す必要もなかったのでしょうが、例の女社長の会社はその後不渡りを出して倒産したらしいので、そういったことからも、例の噂がたちの悪い作り話だったと、見当をつけられたのかもしれません。悪いことはできないものです。